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   <title>ジャズ人名事典～初期のジャズ</title>
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   <title>Murray, Don </title>
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      時にはテナーサックスも演奏したクラリネット奏者だ。ヴァイオリンも弾けたそうだ。伝説的なコルネット奏者Bix Beiderbeckeの音楽仲間として有名である。録音上残っている最も初期のDon Murrayの演奏はNew Orleans Rythm Kingsに参加した1923年のものであろう。その後、1927年までJean Goldketteの楽団に参加。Bixとは1925年と1927年に録音もしている。1927年は、その他にFrankie TrumbauerやAdrian Rolliniと活動。Joe Venutiとは1928年まで演奏した。

1928年には映画館専属バンドでの演奏に加わるようになる。例えば、Don Voorheesをリーダーとする楽団などがそれである。またこの時期は他にもいくつかのバンドに加わっていたようだが、この熱心な音楽活動の結果であろうか、Don MurrayはハリウッドのTed Lewisの映画の撮影に参加することとなった。

しかしながら、この「Is Everybody Happy」の撮影中に悲劇は起こる。転倒して頭部を打ち、これがもとでDon Murrayはその短い生涯を終えた。転倒の原因は、酒であったと伝えられる。
      
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   <title>Robinson, Jim </title>
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      Jim Robinsonが最初に手にした楽器はギターであった。Pops Fosterの兄でバンジョー奏者であったWillie Fosterに習ったという。その後しばらくはギター奏者として活動を続けた。トロンボーンを吹き始めたのは、第一次世界大戦でフランスに配属された1917年で、この時にKid Renaと演奏をしたのがおそらく彼のトロンボーン奏者としてのデビューであると思われる。兵役を終えた1919年に故郷に戻るとSunny Henryにトロンボーンの奏法を教わった。そして、Lee CollinsのGolden Leaf Orchestraに加入。また、同じ頃Tuxedo Bandにも参加した。故郷ニューオリンズを中心に活躍した。

1923年にSam Morganのバンドに参加すると、このバンドの一員として1927年にはレコーディング。これがJim Robinsonの初録音となった。その後、1929年にSam Morganとともにシカゴに行く。このシカゴ行きは成功とは言えなかったようで、音楽的に認められることなくニューオリンズに帰る。

ニューオリンズに戻ったJim Robinsonは、プロの音楽家としては引退し、湾岸労働者として過ごした。Kid HowardやCapt. John Handyらとライブに出演することもあったようだが、おそらく1930年代は彼にとって不毛な時期であったに違いない。少なくとも、音楽面では不毛であった。脚光を浴びることなく10年間が過ぎた。

だが、1942年のBunk Johnson再発見で火が着いたリバイバルブームによって、Jim Robinsonの運命は大きく変わっていく。まずKid Renaの録音（1940年）に参加すると、1942年にはBunk Johnsonの初録音に参加。Bunkのバンドの人気は凄まじく、Jim Robinsonの名も知られるようになった。1946年にBunkのバンドの仲間であるGeorge Lewisのバンドに加入。ニューオリンズを中心に演奏を続けた。

1950年代はGeorge Lewisのバンドで過ごしたが、1960年にはRiversideレーベルに初のリーダー作を吹き込む。また、1961年から1975年まではPreservation Hallにレギュラーとして出演。Sweet Emma Barretのバンドで演奏をした他、彼女の死後はPercy Humphreyのバンドでも精力的に活動していた。 
      
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   <title>Roppolo, Leon</title>
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      ルイジアナ州のラサセンで生まれた白人で、あのNew Orleans Rythm Kingsのクラリネット奏者として有名である。少年時代には、バイオリンやクラリネットの他、ギターも学んでいたようだ。1916年（14歳のとき）に家出をし、Georg BrunisやPaul Maresと演奏をした。その後、リバーボートで演奏するようになり、このころ伝説のコルネット奏者Emmett Hardyと出会ったと言われる。その後シカゴに移ると、1921年にPaul MaresのFriars Society Orchestraに参加した。これが後のNew Orleans Rythm Kingsとなる。

23年にはPaul Maresとともにニューヨークに行ったり、その翌年にはPeck Kellyとともにテキサスで演奏したり、と各地を巡業していた。また、この頃には彼のクラリネットのスタイルも確立されつつあったようで、その奏法は多くのシカゴ派と言われる演奏者に影響を与えた。

ニューオリンズに戻ってからは、主にAlbert Brunisと演奏していたようだが、当時の彼は麻薬中毒でステージの合間にトイレに駆け込んでは麻薬をやっていたとのこと。おそらく、その影響であると思われるが、視力と肺が悪くなりクラリネットが吹けなくなった。精神的に病んだRoppoloは1935年頃に精神病院に収容され、死ぬまでそこで過ごした。

彼の最後に吹いたクラリネットは、精神病の彼自身の手によって湖の底に沈められたと伝えられている。 
      
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   <title>Snowden, Elmer </title>
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      Elmer Chester Snowdenは、1900年にメリーランド州ボルティモアで生まれた。15歳の時にはEubie Blakeとボルティモアのダンス学校で演奏の仕事をしていた。また、無声映画の伴奏などもしていたようだ。1919年にはWasington Trioを結成するが、かれがDuke Ellingtonと演奏したのは、このWasington Trioが最初であったという。

1921年には自身のコンボを率いていたそうで、1923年にこのバンドを連れてニューヨークへ行く。このWasingtoniansというバンドは、メンバーにBubber MileyやOtto Hardwicke、Sonny Greer、そしてDuke Ellingtonといった実力あるミュージシャンを擁し、後のDuke Ellington楽団の母胎となった。Elmer SnowdenがWasingtoniansから離れると、Duke Ellingtonがこのバンドのリーダーになり、バンジョー奏者のFred Guyが加入する事となる。

1920年代後半から1930年代初めにかけても自身のバンドを持っており、Count BesieやJimmie Lunceford、Bubber Miley、Frankie Newton、Tricky Sam Nanton、Chick Webb、Benny Carterがこのバンドに参加している。以後もさまざまなバンドのリーダーとして活躍し、1930年にはRex Stewart、Jimmy Harrisonなどと演奏し、1932年の彼のSmall Paradise OrchestraにはRoy Eldridge、Dicky Wells、Sidney Catlettが参加していた。当時のニューヨークには、Elmer Snowdenの名を冠したバンドが少なくとも５つはあったという。（そのうちの一つは、実際はCliff Jacksonのバンドであったそうだ）

1930年代後半には、Elmer Snowdenはフィラデルフィアに移る。フィラデルフィアでは音楽教師をするだけでなく、多数のバンドを率いていたという。1942年にはJoe SullivanとTrioを結成している。1940年代を通して、フィラデルフィアとニューヨークでバンドリーダーとして活躍した。1950年代にはカルテットを結成しカナダを巡演する。

1960年にはCliff Jacksonとレコーディング。このレコード｢Harem Banjo！｣では、Elmer Snowdenはチューニングを低くしたテナーバンジョーを演奏しているが、そのプレイスタイルには、幼い頃演奏していたマンドリンの影響があるのではないか、という説もある。それにしても、ここでのバンジョーカルテットという編成は、他ではなかなか聴く事の出来ない貴重なものではないだろうか？

最晩年の録音では、1967年のベルリンのジャズ祭でのものが残っている。 1968年にはフィラデルフィアに定住し、1973年に亡くなるまで同地で活躍した。 
      
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   <title>Nelson, Louis Big Eye </title>
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      Lorenzo Tio Snr.（1866-1920）と&quot;Papa&quot; Luis Tio（1963-1927）のもとで学んだ初期の名クラリネット奏者である。1900年頃には、Buddy Bolden&apos;s Bandで演奏していたという話もある。このころはベースやギター、時にはヴァイオリンも演奏していたが、1904年ごろからクラリネットだけに集中するようになった。

その生涯のほとんどを故郷のニューオリンズで過ごし、シカゴで演奏していた1916年から1918年にかけての約二年間をのぞいては、ほとんどニューオリンズを離れることはなかったようだ。第一次世界大戦以前にBig Eyeが参加していた楽団には、Golden Rule Orchestra、Imperial Band、そしてSuperior Orchestraなどがある。King OliverやJelly Roll Mortonなどとも共演の機会があったはずだ。

当時のニューオリンズでKing Oliverと二代目ジャズ王の座を争っていたというのがFreddie Keppardであるが、彼に誘われてOriginal Creole Orchestraに加わると、1916年にはこの楽団とともにシカゴに演奏ツアーをしている。

このような華々しい活躍をしてきたにも関わらず、その後のBig Eyeのキャリアは、音楽的には不毛なもので、その後約25年間の空白期間がある。

1940年にKid Renaのレコーディングに参加するが、再び消息不明になる。ジャズ研究家のBill RussellがBunk Johnsonのバンドのクラリネット奏者候補として探し回ったが見つからず、Bunkの推薦でGeorge Lewisが連れてこられたというのは有名な話だ。1944年にベルギー人ジャズ批評家のRobert Goffinによって、ホテルのドアマンをしているところを発見され、２回ほどの録音を行なった。また、死の直前の1949年には、彼自身の名義のアルバムも録音された。

特筆しておくべきは、ジャズ草創期におけるクラリネット奏者の多くに影響を与えたことであろう。まだ自身のスタイルを確立していなかったSidney Bechetを教えた他、そのスタイルはJohnny DoddsやJimmie Nooneにも影響を与えたと言われる。 
      
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   <title>St. Cyr, Johnny </title>
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      初期の偉大なジャズの先駆者の一人である。知名度の上で、Louis ArmstrongやJohnny Dodds、Jelly Roll Morton等に劣るのは残念だが、それはおそらく楽器がバンジョー・ギターであったからに他ならない。

Johnny St. Cyr自身の記憶によると、1905年頃には既に、ニューオリンズでトリオのバンドを組み演奏活動を行っていたようだ。1923年にシカゴに移って以降は、King OliverやJelly Roll Mortonと活動し、さらにLouis ArmstrongのHot FiveやHot Sevenのセッションに参加するなど、20年代を代表する録音に参加した。

30年代の不況になると、彼は故郷のニューオリンズにもどり、Alphonse PicouやPaul Barbarinなど地元のミュージシャンと仕事をしていたとのことである。その後、ニューオリンズのリヴァイヴァルミュージシャンとして活発に活動するようになり、特に50年代はPaul Barbarinと定期的に演奏を続けるなど、音楽的にも充実していたようだ。1955年になるとロサンジェルスに移り、以後ディズニーランドなどで仕事をしていたが、1966年に白血病で亡くなった。
      
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   <title>Pierce, Billie</title>
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   <published>2007-07-21T17:21:43Z</published>
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      フロリダ州で生まれた。De De Pierceは彼女の夫である。フロリダでピアノを学び、16歳の時にはなんとBessie Smithの伴奏をつとめていたという。この経験は、後のBillie Pierceの歌にもなんらかの影響を与えているに違いない。

1930年にニューオリンズに出てきた彼女は、Buddy Petitのバンドに参加。また1930年代はDe De PierceやGeorge Lewis等とのセッションを重ねた。1935年にはDe De Pirceと結婚し、1940年後半からは夫とともに10年以上も『ルチアン・ダンス・ホール』で仕事をした。1950年にDe De Pierceが失明するという悲劇にみまわれるが、夫婦デュオの活動はその後も続けた。1960年に夫婦そろって病気になるが、その回復後の1960年から1970年頃まで、プリザベーションホールで演奏をするかたわら、ヨーロッパを巡業するなど幅の広い活動を行なった。

1970年にはニューポート・ジャズ祭に出演し人気を博すが、1973年に夫De De Pierceが亡くなると意気消沈したのか、その10ヶ月と６日後、あとを追った。 
      
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   <title>Kimball, Henry</title>
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      最初期のベース奏者の一人である。1894年にJohn Robichaux楽団に参加し、チューバが主流だったこの時代に、ストリングスベース（弦のベース）を演奏していた。その奏法は、弦を指ではじく後のジャズベースのようなスタイルではなく、あくまでチューバの代用品としての、弓を使っての演奏であったと推測される。

1894年から1919年まで、実に25年という長期にわたってJohn Robichaux楽団に参加した。そのため、John Robichaux楽団のベース奏者としてのイメージが強いが、もちろん他の楽団でも活躍している。1920年代初頭にはJelly Roll Mortonの楽団に参加し演奏旅行をしているし、Manuel Perezとも演奏をした。1920年代後半にはWalter Pichonとニューオリンズで演奏し、息子がバンジョー奏者を務めるPapa Celestinのバンドにも参加する事があったという。

Henry Kimballはリバーボートで有名なFate Marable楽団のメンバーとしても知られているが、時期的には1920年代半ば頃のことだと思われる。1924年にはこの楽団で２曲ほど録音も残している。

バンジョー奏者として知られているNarbin Kimballの父にあたる。 
      
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   <title>Lewis, George</title>
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      本名は、George Lewis Francis Zenoという。彼が育った家の近くには、Freddie KeppardやManuel Perez、George Baquetなどが演奏をするホールがあり、最高のミュージシャンの演奏を日常的に聴く事ができるという最高の環境であったようだ。しかしながら、かれの家庭は他の黒人たち同様に貧しく、クラリネットを買うにも何年かがかりで貯金をしなくてはならないほどだったという。かれが、初めてのクラリネットを手に入れたのは16 歳の時であった。

1917年には、Lee CollinsがいたBlack Eagle Bandに参加しするが、これがGeorge Lewisのデビューバンドということになる。1920年代はBuddy PetitやKid Rena 、さらにKid Oryなどのバンドで働いたという。1923年にはEureka Brass Band に参加する。またOlympia Bandにも1932年まで在籍していたようだ。1930年代のはじめ頃、Bunk Johnsonが参加していたEvan ThomasのBlack Eaglesに加わるが、このバンドでGeorge Lewisにとってはショッキングな出来事が起こる。このバンドのリーダーでありトランペットを吹いていたEvan Thomasが、ステージの上で殺害されたのである。理由は女性関係のもつれであったそうだが、この事件がきっかけでGeorge Lewisはジャズから離れ、港で荷物運びをして生計を立てるようになる。

1942年に、George Lewisと同じくEvan Thomas殺害事件をきっかけに引退していたBunk Johnsonが、リバイバルブームで再発見されると、そのバンドのクラリネットとしてGeorge Lewisが起用される事になる。1944年からBaby DoddsがこのBunk Johnsonバンドに参加していることも述べておくべきだろう。Georgeのオリジナル曲である「Burgundy Street Blues」が作られたのも、この頃の事だ。

1949年にBunk Johnsonが死ぬのと前後し、リバイバルブームの波はひきはじめるが、George Lewisは自分のバンドで演奏を続けた。1950年代の後半にはヨーロッパを旅行し、1963年には初来日する。その後1964年、1965年と日本にやってきている。またこの頃ニューオリンズにPreservation Hallがオープンし、George Lewisもここで演奏するが、かれのバンドはこのホールで高い人気を得ていた。1968年になくなる直前まで、このホールで演奏を続けていた。 
      
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   <title>Valentine, Kid Thomas </title>
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      ルイジアナ州のリザーブの生まれである。父親がブラスバンドの楽器係やトランペット奏者をしていたため、幼い頃から楽器に親しんでいた。1910年にPickwick Brass Bandに加わったという記録がある。同郷のEdmond Hallとは仲が良く、1914年頃にはHall一家とバンドを結成している。ちなみにこのときのEdmond Hallの楽器はギターであった。

ニューオリンズに出てきたのは1922年のこと。ペンキ屋、何でも屋をすることによって生計を立てていたが、そのかたわら演奏の方も続け、1930 年代の初め頃からは自身のバンドを率いた。1936年ごろに、あるクラブの持ち主と知り合いになったことからそこのダンスバンドで働くようになる。ちなみにトローンボーン奏者のLouis Nelsonも同じダンスバンドで演奏をしていた。

1930年代から1940年代にかけての彼は、演奏の仕事がなかったわけではないにしても、どちらかと言えば不遇であったようだ。

しかしながら、1951年に自身のリーダーアルバムをAmerican Musicレーベルに吹きこむと一躍脚光を浴び、その後Riversideレーベルの「New Orleans: The Living Legands」のシリーズにリーダー作を二枚（1960年から1961年）録音するなどの活躍をする。また、1961年にPreservation Hallがオープンすると同時にここで働き始め、その後も常時出演していた。レコード以前のジャズの香りを残す泥臭いトランペット奏者であった。 
      
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   <title>Laine, Jack Papa </title>
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      本名をGeorge Vital Laineという。若き白人ミュージシャンたちの面倒を見たことから“Papa Jack”などと呼ばれるようになった。「the first white jazz musician」とか「the father of white jazz」などとも言われる。ニューオリンズ出身の白人である。

自身のバンドを最初に作ったのは1888年のことである。その後Reliance Brass Bandをはじめとする多くのジャズバンドを率いた。初期の白人ジャズの有名なミュージシャンの多くは、Laineの率いるジャズバンドに参加していたという。例えば、Nick La RoccaやSharkey Bonano、Brunies兄弟は、Reliance Brass Bandのメンバーであったし、Tom BrownもLaineがリーダーを務めるバンドに参加していた時期があったとのこと。実力派のミュージシャンがそろっていたせいか、1900年代初頭、彼のバンドはニューオリンズ一帯で人気を集めた。

1917年に引退するが、ニューオリンズジャズ再認識の動きが起こった1940年代から1950年代にかけて再び注目を集め、幾つかのレコーディングに関わった。だが、彼自身の演奏は録音されていない。 
      
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   <title>Humphrey, Willie Sr.</title>
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      フルネームはWillie Eli Humphreyという。音楽教師でコルネット奏者のJim Humphreyの息子として、1880年にニューオリンズで生まれた。父であるJim Humphreyにクラリネットを教わり、1900年には父が率いるマグノリア農園のブラスバンドに加わる。その後、10年間はこのブラスバンドでクラリネットを吹いていた。また、マグノリア農園時代に生まれたかれの息子たちは、三人ともミュージシャンになっている。

1913年になると、Jack CareyのCresent City Orchestraのメンバーとなり、このバンドでMutt Carey、Tubby Hall（Minor Hallの兄）などとプレイした。1964年の１月に亡くなった。
      
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   <title>Piron, Armand J. </title>
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   <published>2007-07-10T17:18:28Z</published>
   <updated>2007-07-10T21:46:58Z</updated>
   
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      ニューオリンズ出身のヴァイオリン奏者だが、作曲もする。有名なところでは、「I Wish I Could Shimmy Like My Sister Kate」や「The Purple Rose Of The Cairo」が彼の手によるものである。

楽団のリーダーを務めていた父のもとで、幼い頃から音楽を学んでいたそうだ。プロとしての初ステージは1904年であったという。その４年後の 1908年には自身のバンドを率いるようになり、また1912年から1914年にかけては、Clarence Williamsも参加していたOlympia Orchestraをリードした。

同僚であったClarence Williamsとは非常に仲がよく、二人で出版社をつくったりもしている。二人の経営するPiron And Williams Publishing Companyは、1915年に「I Wish I Could Shimmy Like My Sister Kate」を世に送り出した。

その後Pironは、1916年にはPapa Celestinと、1917年にはW. C. Handyと活動している。1918年から1928年にかけては再び自身の楽団を結成し、いくつかの有名なバーやレストランで演奏をしていた。また 1923年から1924年にかけて、ニューヨークの有名なCotton ClubやRoseland Ballroomに、この楽団が出演していたのも、忘れてはならない。だが、このニューヨーク訪問は、演奏旅行というにはあまりに短いものであったようだ。

1930年代に入ると小編成のバンドを率いて、リバーボートで演奏するようになり、それは1940年代の初めまで続いた。また、ナイトクラブに出演したこともあったそうだ。1943年に故郷ニューオリンズの病院で亡くなった。



      
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   <title>Rena, Kid </title>
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   <published>2007-07-09T17:19:47Z</published>
   <updated>2007-07-09T17:38:51Z</updated>
   
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      本名はHenry Rena。1898年にニューオリンズで生まれた。兄のJosephはドラムを演奏する。幼いころからLouis ArmstrongやLouis Madison（Kid Shots Madison）とともにストリービルを歌って歩き、小遣い稼ぎをしていた。実は、この三人は幼馴染であっただけではなく、少年院時代の音楽仲間でもあった。

Kid Renaは1913年（？）にLouis Armstrongとともに黒人少年院（Joseph Jones&apos;s Colored Waifs&apos; Home）のブラスバンドに入った。少年院を出ると、1919年にはKid Oryのバンドに参加し、その後1920年にはKid Oryの楽団を離れ自分のバンドを結成した。1920年代の半ば頃に最盛期を迎えたこのバンドは、まだ若かったGeorge Lewisと、兄のJoseph Renaのドラムをフィーチャーした演奏で、ニューオリンズでも人気を集めていた。何回かシカゴに演奏旅行に出かけたこともあったという。この時期から 1930年代にかけて、Sharky BonanoやLouis Primaなどに少なからず影響を与えた、とする話もある。その後Tuxedo Brass Bandに参加し、不況時代にも自身のバンドを率いていた。

彼の唯一の録音は1940年のものである。この録音は、Bunk Johnson再発見（1942年）によって火がついたニューオリンズ・リバイバルブームの、先駆け的なセッションであったといえるだろう。このレコーディングにはBig Eye Louis Nelson（トロンボーン奏者のLouis Nelsonとは別人）とAlphonse Picouという二人の伝説的なクラリネット奏者だけでなく、ニューオリンズの指折りのトロンボーン奏者であったJim Robinsonも参加した。

この歴史的なレコーディングの後、しばらくすると彼は体調を崩した。原因は深酒とも言われる。この体調不良を理由として音楽から1947年に引退したKid Renaは、その二年後の1949年に故郷のニューオリンズで亡くなった。 
      
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   <title>South, Eddie </title>
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   <published>2007-07-09T01:48:41Z</published>
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      The Dark Angel of the Violin」と呼ばれた。ミズーリ州のルイジアナで生まれたEddie Southは、まだ幼いうちに両親とともにシカゴへと移り、そこで育ったという。シカゴの音楽学校でDarnell Howardにジャズを教わった（Earl Hinesの証言）のち、共に学んでいたCharles Elgarのバンドで演奏するようになった。その後、Erskine Tateとも演奏をしている。ニューヨークでのJimmy Wadeとの録音が1923年で、これが彼の初録音となった。

1929年には初渡欧を果たす。パリやブダペストで音楽を学んだ後、1930年にはロンドンにも足を運んでいる。このヨーロッパでの経験の中でも、彼の印象に残ったのはハンガリーでのジプシー音楽家との交流であったようだ。これをきっかけにしてSouthは演奏スタイルを変えていく。

1931年にシカゴに戻ると自身の楽団を結成する。この楽団にはMilton Hintonも参加していた。録音も残しており、印象としてはのちのDjango Reinhardtとのセッションを連想させるようなサウンドだ。

1937年に再びパリに渡り、Django ReinhardtやStephane Grappellyらとセッションする。Swingレーベルに残された一連の録音は「The Dark Angel of the Violin」と呼ばれる彼の実力を伝えている。また、Stephane Grappellyとの息もぴったりで、良い演奏だ。おそらくEddie Southが残した録音の中でも、このDjangoとのセッションは比較的入手しやすいはずだ。

1938年に帰国してからのEddie Southはと言うと、シカゴやロスアンジェルス、ニューヨークを中心に小編成のバンドで活動を続けていた。1950年代にはテレビ番組にも出演する。しかし、1960年に病気で引退すると、その後まもなくしてシカゴで亡くなった。死因は心臓病であった。
      
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