Jelly Roll Morton

基本情報
生年月日
1890/09/20(New Orleans, Louisiana)
命日
1941/07/10(Los Angeles, California)
使用楽器
経歴

Jelly Roll Mortonの本名は、Ferdinand Lemott Mortonと言い、1890年頃に生まれたとされる。ただ、Morton自身の後の証言では、彼は1885年生まれだそうだ。そして、本名も Ferdinand Joseph La Mentheで、父親は建築業を営む裕福なフランス人の血をひくクリオールであったのだが、かれの母親がEdward Mortonと再婚したため、名字がMortonに変わったのだという。Mortonの証言の真偽はともかく、家庭が崩壊状態であったのは事実のようだ。少年時代のかれは祖母と名付け親に育てられたそうで、何とも複雑な少年時代であった。

かれが最初に手にとった楽器は、ギターであった。6歳の頃からスペイン人の音楽教師にレッスンを受け、7歳の頃にはかなりの腕前になり、近所の子供たちとバンドを作り街に演奏に出かけていたそうだ。かれのピアノの演奏にスペイン音楽の影響が感じられるのは、このスペイン人教師の影響が強いのではないか、という説がある。

ある時、Mortonはギターの名手Bud Scottの演奏を聴き、自分のギタリストとしての可能性に自信を失ってしまった。そして、その後はピアニストとしての道を歩む事になる。正規の音楽教育を受けたかれのピアノの腕前は上達し、15歳の頃にはストリービルの売春宿などに出入りし、そこで演奏するようになった。そして、1902年には「ジャズを創造した」と彼自身がいうとおり、かなりの腕前になっていたものと思われる。

当時のかれは、音楽家であるとともに博打うちでもあったらしい。一時は、Morton自身アメリカで一番のギャンブラーになろうと志した事もあったというから、驚きである。娼家の専属ピアニストとして働く一方で、客のいないときは近くの酒場でギャンブルに興じていたという。そのような生活を厳格な彼の祖母が許すはずもなく、Mortonは勘当される。

その後のかれは長い放浪生活に入る。その足跡は明らかになっていないが、どうやら1908年頃にはメンフィスで、W.C.Handyとバンドをやっていたらしい。また、1911年にはニューヨークで演奏していた、とJames P. Johnsonが証言している。1912年から1915年にかけてはシカゴやセントルイスで活動。1917年にロサンゼルスにあらわれたMortonは、その後1922年までここを中心に生活をする。

1922年にはFate Marableのバンドでも演奏したようだが、その翌年にはシカゴに移る。1923年にシカゴで行われたJelly Roll MortonとNew Orleans Rhythm Kingsのレコーディングは、歴史上初めての白人黒人混成での録音であった。また、この時期にはソロピアノでの録音も残している。1926年になると、自身のバンドRed Hot Peppersを結成する。

このバンドで、かれはコルネットのGeorge Mitchell、トロンボーンのKid Ory、クラリネットがOmer SimeonやBarney Bigard、Johnny Doddsなどといった素晴らしいメンバーとプレイする。バンジョーのJohnny St. CyrとBud Scottや、ドラムのBaby Doddsも忘れてはならないだろう。このバンドのレコードの成功と彼の編曲の楽譜がヒットした事で、Jelly Roll Mortonはたいへんな名声を得た。

1928年には、ニューヨークに進出した。しかし、不況の影響であろうと思われるが、契約していたレコード会社は契約を更新せず、また同時に Mortonの性格が災いしミュージシャン仲間からも敬遠されるようになった。結成したバンドも経営がうまく行かず解散する事になり、次第にかれは怒りっぽい性格になっていったようだ。1938年にはW.C.Handyをジャズの創始者と紹介したラジオ番組に抗議文を送り、「ジャズの創始者は自分である」と主張したばかりか、この抗議文の中で当時人気を集めていたDuke Ellington楽団の事を貶したりしている。この頃のかれは小さなクラブでの演奏などをしており、おそらく焦りあった事と思われる。しかし、かれのこの過激な抗議文は逆に彼自身の評判を落とす事となった。

その同じ年(1938年)の事であるが、Mortonに国会図書館のための吹込みという仕事がやってきた。Morton自身の演奏と当時のニューオリンズについてのインタビューが吹込まれた。この吹込みがきっかけとなって、1939年にはニューヨークに戻り、いくつかのレコード会社で吹込みをした。しかしながら、あまり反響はなかったようだ。失意のJelly Roll Mortonは1940年にニューヨークを去り、ロサンゼルスへと引っ越す。かれがカムバックした1939年は、ディキシーランドのリバイバルブームが起きる直前であり、あまりに不運だと言える。

心臓病と喘息を患うようになったMortonは、1941年の7月10日にロサンゼルスでこの世を去った。彼の葬儀は寂しいものだったそうで、Kid Oryとそのバンドのメンバーが参列したという。

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