Sidney Bechet

基本情報
生年月日
1897/05/14(New Orleans, Louisiana)
命日
1959/05/14(Paris, France)
使用楽器
,
経歴

Sidney Bechetは、1897年にクリオールの音楽一家に生まれた。兄弟のLeonard、Albert、Homer、Josephはそれぞれトロンボーン、ヴァイオリン、ベース、ギターを演奏をし、幼い頃にはこの兄弟バンドで演奏していたそうだ。6歳の時にクラリネットをはじめ、わずか2年後の8歳の時には、Freddie Keppardのバンドに加わって演奏し、その技量で大人たちを驚かせたという。はじめはGeorge Baquetに、その後、Big Eye Louis Nelsonに影響を受ける。そして、さらにテクニックの完成のため、抜群のテクニシャンであったLorenzo Tio Jr.に教えを乞い、自己のスタイルに磨きをかけた。

また、その一方でJimmy Nooneなどにクラリネットを教えたりする事もあったようだ。実際、Jimmy Nooneがクラリネットをプレイするきっかけは、Sidney Bechetの13歳の時の演奏を聴いた事だという。

この頃の逸話として次のような話が残っている。人気クラブだった25Clubでのことだ。演奏を聴きにきていた13歳のSidney Bechetは、バンドの面々に演奏に参加するように誘われた。しかし、あいにくSidney Bechetはクラリネットを持ってきてなかった。出演しているバンドのメンバーは、それでもSidney Bechetに演奏に加わって欲しいと言う。Sidney Bechetは、持っていたタバコの箱の角をつぶして即席のリードを作り、それで何時間も演奏を続けたという。これで演奏の方も大盛況だったというのだから、とんでもない話だ。

10代にしてBuddy PetitやJohn Robichauxのバンドなどで活動。Bunk Johnsonの紹介でEagle Brass Bandに参加したのが1912年頃というから、この時まだ15歳。当時、2代目ジャズ王の地位を争っていたのはKing OliverとFreddie Keppardであったが、Sidney Bechetはこの二人との演奏の仕事を掛け持ちしていたというから驚きである。1915年にはKing Oliverにバンドの正規メンバーにならないかと誘われるが、この話は断ってしまった。

1917年になると、ニューオリンズを離れシカゴへの演奏旅行に出かけ、1919年にニューヨークに移住する。ニューヨークで参加したWill Marion CookのSouthearn Syncopated Orchestraとともに初渡欧したのがその年の6月であった。Sidney Bechetの演奏は大成功だった。スイスの指揮者Ernest Ansermetは、同年執筆した文章の中でSidney Bechetについて述べているが、「彼の芸術は世界を揺り動かすだろう」と大絶賛している。

帰国したSidney BechetはClarence Williamsの誘いでレコーディングに参加する。これがSidney Bechetの初録音(1923年6月30日)となった。曲は「Wild Cat Blues」と「Kansas City Man Blues」で、このレコーディングでSidney Bechetは迫力のある演奏を披露した。この録音でトランペット奏者であったThomas MorrisはSidney Bechetに圧倒されてしまい、Clarence Williamsは次のレコーディングのためにSidney Bechetに匹敵するトランペット奏者を探さなくてはならなかった。そして、選ばれたのがLouis Armstrongであった。Sidney BechetとLouisは不仲であったが、逆に対抗意識からか白熱した演奏が繰り広げられた。1924年に録音された一連の録音は、ジャズ史に残る名演である。

その後、再渡欧を果たし、モスクワやベルリン、そしてパリを行き来していた。後にコンビを組むTommy Ladnierと出会ったのはこの頃の話で、モスクワでSidney BechetのいたBenny PaytonのバンドとLadnierがいたSam Woodingのバンドが鉢合わせしたのがそのきっかけだという。

Noble Sissle楽団にいた時のことだが、酒場で楽団仲間と喧嘩になり、銃を持っていたSidney Bechetともう一人の楽団員が街中で発砲する騒ぎとなり、メンバーの一人が負傷した。当然のことながら発砲した二人は約一年間刑務所に入ることになった。この事からもわかる通り、Sidney Bechetは喧嘩っぱやい性格で、 Bashet(殴り屋)というあだ名がつくほどだった。後にはBunk Johnsonに酒瓶を投げつけたり、Joe Sullivanにナイフを付きつけたりといった事もしている。

時期がやや前後するが、Sidney Bechetは1926年の6月から11月までの5ヶ月間Duke Ellingtonのバンドに参加していた。とくにBubber Mileyとは仲が良かったという。毎晩のように二人がカッティングセッションをしていたというのは、Ellingtonの証言である。

1932年にはモスクワで知り合ったTommy Ladnierとコンビを組み、この二人のNew Olreans Feetwarmersは、ディキシーランド・ミュージックの再興を目的とするバンドで、録音も残している。1933年はじめに、不況によってこのバンドは解散するが、その後も二人の仲は続いた。Ladnierの健康状態が悪化して、それがかれの演奏にも影響を与えはじめると、Sidney Bechetは気を使っているのか、抑えた演奏をしている。Sidney Bechetの性格からすると非常に珍しいことだが、それだけLadnierとの間には深い友情があったということだろう。Ladnierの死んだ後には、「Blues For Tommy」などという曲名でのレコーディングも行っている。

1940年代には、Bunk Johnsonとラジオ番組などで共演した他、Wild Bill DavisonやMugsy Spanierとのレコーディングも行なった。また、この頃にはSidney Bechetの名声は高まっていたので多くの弟子が集まった。Sidney Bechetの数多い弟子の中にはBob Wilburがいて、かれはSidney Bechetの音楽面での秘書といった役割を果たすようになった。二人はともにレコーディングを行い、時には二人揃ってラジオ番組にゲストとして出演したこともあった。

ビ・バップの台頭もあってか、1949年にフランスに移住してからは欧州を拠点として活動を続けた。フランスでは驚くほどの歓迎を受けたわけだが、レコーディングだけでなくパリのジャズ祭に出演するなど、華々しい活躍をする。1959年初頭に癌で倒れ、パリの病院に入院するが、治療の甲斐もなくその年の誕生日にこの世を去った。62歳であった。

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